ひたすら飽きるまですばるくんと関ジャニ∞とそれから

改めてやすばin2016

※やすばに対する一個人の超!超超超主観を並べた自己満足に他ならない記事です。やすばが大好きで、安田くんが大好きで、すばるくんが大好きな関ジャニ∞ファンの方は見ないほうがいいと思います(笑)

※便宜上断定的な文章が続きますが、読み進める上では文末に全て「と思う」を付けて頂ければと思います(笑)





やすばの沼に浸かったのは久々な気がする。
すばるくんが好きな人間なら一度は迷い込むであろうやすばの森、迂闊に足を踏み入れればその奥で音を立てずにひっそりと佇むやすばの沼にうっかりと足を突っ込んでしまうことになる。やすばの沼はそれほど静かにそこに位置していて、誰を呼び寄せることも拒絶することもしない代わりに自分から突っ込んでしまったら自力で抜け出すしか道はない。そんなやすばの沼に久しぶりに爪先を落とした気がする。

それもこれも全ては、今回のツアーがとても楽しくって、関ジャニ∞をもっともっと大好きにさせた関ジャニ∞のせいだ。
過去のDVDを見て、やっぱりいっつもかっこいい♡とかいう甘ったれた気持ちだけじゃ終わらせない関ジャニ∞だってことは重々承知していたはずなのになあ、また私は関ジャニ∞の闇の一つであろうやすばの沼に引っかかってしまったんだなあ、自分の愚行を悔やむ。

私がここまでやすばを敬遠する理由はただ一つ、やすばのことを考えていると病むからだ。やすばって、本当に怖い。

やすばって怖い、それを一番最初に突きつけられたのは多分大勢の人が頷いてくれるであろう、ぱっちのお手紙だった。怖い、グルグルと果てしなく脳内を言い様のない絶望が巡る。

やすばは怖い。何故怖いかって、すばるくんが自分から愛情を傾けた人を手放した過程がまざまざと見えるから。もちろん今だってすばるくんと安田くんは仲良しだと思うし、お互いのことを好きだと思う。でも所謂やすばと呼ばれていたあの時期は、明らかにすばるくんの一番が安田くんで、すばるくんは持ち得る愛情のほとんどを安田くんに注いでいたはずだった。

すばるくんはきっと大切なものが少ないタイプの人間で、好きな人もあんまりいないし、友達と呼べる人をたくさん挙げられる人間じゃない。だからこそ、すばるくんは大事なものをちゃんと磨いて、匿って、一生をかけて愛していけるのだ。不器用で、損をしてしまうことも多いと思う。安田くんはきっと真逆のタイプ、大好きなものを大好きとすぐに認めることができて、一つ一つを大切にしていける。器用貧乏を大成させられるのは安田くんの才に他ならない。すばるくんではできない生き方だ、すばるくんがもし安田くんと同じだけのものを愛していこうと思ったらきっと壊れてしまう、と思う。

そのすばるくんが見つけた安田くんという存在がどれほどのものだったかを、私は知ることはできないけれど、やすばという三文字でくっつけられることに違和感がなかったあの時期は、

それが、「何番目かに愛してください」へと変わっていく。
今はもう、desireはもう歌わない、と言い切ることができる。

すばるくんは一体どうして、安田くんを手放すことができたのだろう。

安田くんはきっとたくさん愛されて育ってきた。人に優しくされて、笑顔を向けられて生きてきた。だから人に優しくできる、惜しみなく笑顔を向けられる、たくさんの愛情を注ぐことができる。
すばるくんがそんな人に傾倒するなんて、今だったら、もし今からやすばが始まろうとするなら、そんなことが始まるなんて怖くって、目を瞑ってしまいたくなる。
しかしやすばは過去で、でも確かに存在した。

私はすばるくんが大好きなものしか知らなかったのだ。歌と音楽、関ジャニ∞と、ヨコとヒナ、お母さんと筑前煮、すばるくんはごく少ないピースで形成されていて、本当に必要なもの以外は切り捨てる強さを持っている。
安田くんは、全てのものを捨てずに抱えて愛し抜く強さを持っている。
すばるくんは(明日には)変わらない。
安田くんは(明日でも)変われる。
どちらも強い、私なんかじゃ目を瞑りたくなってしまうほどの強さを持っている。

元気が出るsongを聴いた時、正確には安田くんの歌詞のあとにすばるくんの歌詞を読んだ時、二人の生きてきた道がこんなにも違うのだということをまた実感した。わざとでないと信じたい、安田くんの後にすばるくんが歌うことが、二人の歌詞が、自然で怖かった。
安田くんは日々を進み、変化し、より良い未来のために生きていく。すばるくんは過ぎていく日々を切り取って、選択し、過去に恥じない自分を生きていく。

そんなすばるくんが変化を自覚し、受け入れたときは大きい。ほとんど全てが変わる。しかし安田くんは聡い。そんなすばるくんをきっと受け入れて受け止め、そして手放すこと、手放されることを認めた。安田くんは本当に正しかったのだろう。すばるくんを手放してくれて、ありがとう。愛するものを抱えていく安田くんが手放した数少ないものがもしかしたらすばるくんなのではないだろうか。安田くんは日々変わっていく人だから変化に柔軟で、自分一人で解決できる人だから、きっと変わりながら生きていけるけれど、すばるくんにはきっとそれができなかった。できなかったから、すばるくんは一番を手放して、安田くんは一番でいることを諦めた。安田くんに一番はなかったかもしれない、でもすばるくんの一番であることを認めてくれた。そして一番でなくなることを許してくれた。

私がやすばを怖がるのは、全てを抱える安田くんが手放したから、すばるくんが自ら愛情を手放したから、そのことがとてつもない違和感として現れるから。私がそれを処理できないから、咀嚼できないから。

ああどうしよう君へのキャロルを聴きながら書いていたから、なんだかもう、泣きたくなってしまう。

でもね、私はすばるくんのことが大好きで、すばるくんを一番可愛がっているから、安田くんには手放しなんてしないでよ!!!とも思うんだよ。なんだかなあ、やすばって、やすばってやっぱりすごく尊くて、もしかしたら、明るすぎて見えない。

やすばは今となってはもう過去だけど、やっぱりすばるくんを好きでいる限り、私の一生忘れられない沼なんだろうなあ、またこうして足先を沼で冷やしてしまったら今の関ジャニ∞を見て、納得するしかないのだと思う。安田くんが手放したから、すばるくんが変わったから、いまの大好きな関ジャニ∞がいるのだと。そうしてこれからも小さな二人が肩を並べて笑う姿を画面越しに眺めていくしかないのだなあ。

コンサートは死んでいる、らしい?

どうやら「コンサートは死んでいる」らしい。

1960年代ごろから音楽をこよなく愛する賢い人々がそう唱え始めていたのだと、今日の講義で耳にしたときは体裁で広げていたリングノートに目玉を落っことしそうな勢いで驚愕した。まあ実際に目玉が落ちるはずもなく、私はそれから落とす代わりに筆箱にしまったままだったシャーペンを握って真剣にその日の講義を受けることを心に決めた。目玉と一緒に単位まで落としてしまったらシャレにならないというのが本音だったのかもしれないが。

どうやら音楽を奏でる人間はすべてみな、程度に違いはあれどコンサートという場を好き好んでいるはずだという私の思い込みは間違っていたらしい。むしろ音楽を愛しているという自称を持つ音楽家たちは、壁と天井、床に囲われた空間の中でただ反響するだけの切り離された音に辟易としているようで、音楽に耳も傾けず黄色い声援を投げかけるばかりのファンを嘆いているらしい。そんなことが、あるのか。音楽に関わる人が、コンサートを、ライブを嫌って憎んでいるなんて信じたくなかった。だって私たちファンはコンサートを信じ切っているからだ。コンサートを真実として疑うことができないからだ。

だからこそ、昨今テレビ音楽番組などでの口パクなどの音を当てはめるだけの演出が嫌われる。誰だって信じていたい、今目の前で鳴り響く音が真実であると、でなければなんのためにこんなに必死になって応援しているのかわからない。たまには違う世界にいる彼らとの接点を感じたい。しかし、もし私たちがその場において本当に生演奏の曲を聴けたとして、それはリアルなのか、現実なのか、というところには少々疑問を抱く。
この話はとりあえず後に回すとして、音をあてる演出がここまで嫌われているにも関わらず根絶しないのはなぜなのか。もちろん一番大きな要因は私たち自身が偶像にリアルを求めていることだ。CDで聴いたあの歌を、あの声を聴きたい。しかし私たちはそれがベストテイクをつぎはぎしたかもしれない、音を写し取った加工品にすぎないことを無意識のうちに無視しているのかもしれない。CDやレコードの中に存在する大好きなあの人たち、をリアルで表現されることを願っている。その願いに沿うために、音をあてはめるという手段をとる。これこそが大きな理由であることにあまり疑問は抱かない。しかし私はこの理由以外に、アーティストという種の性分として、最善の音楽を届けたいという欲求があることも理由になっていると思う。そのために演奏家は楽器を練習し、表現力を身に着ける。CDだって何度だって取り直して納得いくまで歌い続ける。だからこそ、「コンサートは死んでしまう。」だって最善の音楽を届けるには音が切り離されるようなコンサート会場を用いることは最適な手段とは言えない。コンサート会場は乱れを生み出す場でしかない。予測不可能なことが起こるくせに、一度限りでしか許されない。そんな場で演奏するよりもつぎはぎのCDを届けてとびっきりのスピーカーで聴いてもらう方が当たり前に良い。

これらの言葉に真っ向から否定する自信も気力も私にはない。だけれど私はコンサートを死なせたくない。というか死んでいるなんて言わせない。コンサートは音を聞くだけの場所ではないからだ。理論破綻してしまったように思われるかもしれないし、実際そうなのかもしれない。しかしどうかできるだけ感情的な私に寄り添って思い出してほしい。コンサート会場で、私たちは音しか、音楽しか与えられていないのだろうか。いや違う、という回答が多いことを祈るばかりだが、ここからは私の話を根拠に進めていくしかないので、なんだそれ?と思った時点でどうかこの記事を閉じてほしい。

コンサートは偶像を演出し、再構築する場である、と私は思っている。CDやテレビで見ているだけの隔たりしかない大好きな彼らを再確認する場なのだ。そしてアーティストたちはコンサート会場で音や、光や、自分たちの姿を駆使して、会場に集まって人々の偶像を一挙に受け入れ、そして提供する、できるだけ統一する。音や音楽は、その演出のための強力な手段のひとつだ。コンサートという名目上、音楽をメインに興すイベントであることは確かなので、音楽ばかりに目を向けがちであるが、私たちはその音楽を一つの大きな手掛かりとして、決して関わることのない彼らを、リアルに寄せて再構築しているはずだ。想像していた通り、笑って歌っている、やっぱり音楽が好きな人なのだ、キーの高いフレーズは目を閉じて歌うタイプなのだな、云々。それがコンサートという場であり、コンサートの意義である、と私は思っている。

だってどこまで突き詰めたって、その人たちが本当の意味でリアルになることなんてない。ましてや本当の音ってなんだ。本当の音なんて彼ら自身の脳内でしか響かない。外付けのギターを手に取って、頭に流れている音楽を再現しているだけだ。本来の音を追及するなんて不可能に近い。外付けの機械でよりイメージに近づける技術を磨くために一生懸命に練習してから奏でられた音を軽視するつもりはない。そこに注目し、感動することはアーティストへ敬意を払う意味でも必要だ。だが、その音が壊されるからといってコンサートまで殺す必要はない、と私は信じたい。コンサートに必要不可欠な最重要項目こそ音であるが、それだけがコンサートの意義ではないはずだ。アーティストの呼吸を感じること、アーティストとともに空気の震えを感じること、アーティストの届けようとしている偶像を、シンボルを受け取ること、コンサートでは音を通じて、音に比べたら些細かもしれない小さな感動を私たちは幾つも得ているはずだ。

私はコンサートが好きだ。コンサートってなんだ、だけれどコンサートが好きだ。私の大好きな関ジャニ∞が愛しているコンサートが好きだ。アーティストなら、少しでも音楽が好きなのだったら、ファンの前で演奏することだけじゃなくて演出すること、演じることもどうか厭わないでほしい。そうして私たちに偶像を押し付けてほしい。解かれることのない呪縛のような夢の中に一生閉じ込めておけるような確固とした偶像がほしい。それが決して交わることのないファンが唯一主張できる望みだと、私は思っている。

唯一って言ったって、それ以外も見出さなければならない

年々、この時が大切になっていくのがわかる。昨年のツアーの時はこんな込み上げるようなどうしようもない思いはたしかに抱いていなかった。

昨年よりも単純に好きになっているのとは違う。

どうして、私はこんなに関ジャニ∞に会える瞬間を、心待ちにしているんだろう。

私は老いたと思う。この一年でやたら内臓器官が衰え出して、調子が悪いとパスタ一皿だって食べきる前に私の胃が油に白旗をあげるようになってしまった。それと同じくらいのスピードで精神的にも衰えた。元来の性格も由来して、この先にもっと楽しいことがある、まだまだたくさんの幸せを噛み締められるなんて希望を簡単に抱かなくなってしまった、らしい。

もしかすると、関ジャニ∞は私の今のところ唯一の希望なのかもしれない。

しかしながらむしろ年々、私の関ジャニ∞にかける時間とお金は減っている。2015年なんて新しいキラキラアイドルの伊野尾慧くんに執心していた時期もあったくらいだし、そもそもCDを全種買うとか、レギュラー番組を毎週見てマメにダビングするなんてことなくなってしまった。イレギュラー出演の番組は逃した数の方が多いだろうし、きっとジャニオタとしての密度は薄くなっている。

だけれど、きっと関ジャニ∞は私の永遠の希望なのだ。

関ジャニ∞の、元気が出るCD、これが私の2015年を、いま思えば渇いたスポンジのような無為にしてしまった一年を取り戻すように盛り上げた。

元気の押し売りのような宣伝、とりあえず見て聞け感じろ、俺たちの在り方を

2015年、全員が30代になったこの年、ある意味の回帰すらも含むようなコンセプトのアルバムとツアーを背負った関ジャニ∞はまさしく私の希望なのだ。

しかし新しいアルバムだとも思っている。全員の持てる楽器で鳴らされるインストから始まるそれは、この先に何があるかを全く想像させることなく、休む間もなく二曲めへと強引に私たちを連れて行く。二曲めにしては斬新なバンドスタイルの強気な関ジャニ∞は彼らにも血が巡っていることを生々しく感じさせる。それは私たちなんかよりもずっとずっと速いスピードで、巡って巡らせて、彼らを生かしている。関ジャニ∞は自分たちが人間として生きていることを、たまに絶望させるほどまざまざと表現する時があると思う。

今回の感想は精神的なところに寄るため、シングル曲を割愛させて頂くが、次の韻踏ィニティはファンに、ファンになったばかりの素直で衝動的な自分たちを思い起こさせる。と、同時に関ジャニ∞関ジャニ∞として生きてきた揺るぎない自信を私たちに見せつけて、歌う。そんな彼らの浮気お嬢さん、という表現は私たちを震わせる。余裕と自信、関ジャニ∞は確かに大人の男になっていた。

バリンタンでは新しい可能性を私たちに存分に見せつけてどうだと笑っているに違いない。

スペアキーみたいな曲すらしっとりと上品に歌い上げてしまうのに、CloveRで強引にまた幸せな気持ちを運んできてしまうところも大好きだ。

ナイナイアイラブユーは今回のアルバムで私が特に心を掴まれた曲のひとつで、ナイナイアイラブユーは全てを肯定してくれるようなすばるくんの歌声が印象的だった。「君のいない 人生など ありえない」「アイラブユー」とまっすぐな声で届けてくれた時、私はまたこうして彼の歌声で救われるのだと思った。すばるくんのまっすぐな声は私の気持ちを肯定してくれるから好きだ。すばるくんの声が私の感情になる。すばるくんの歌う節が私の感情になるのだ。あなたたちのいない人生などありえないのだよ、私は。だから一生、そこで大好きな人たちとたくさんの人に囲われて笑っていてください。

WASABIは問答無用のジャニーズアイドルソングで、もう期待しかない。恐らく再生回数は一番だけれど多くは語れない、コンサートで全てが完成すると思っている。関ジャニ∞が隠してくれた宝物をまだ見つけていないのだ。

あまりにのびのびとあっけらかんとしたナントカナルサでさえ素直に聞き入れさせることのできる関ジャニ∞はもう
めっちゃくちゃに格好いい。

私は人生を、ふりむくわけにはいかない。関ジャニ∞がずっと一緒と歌ってくれているなら、これからの人生とこれまでの人生を後悔している場合ではない。

元気が出るCDの与えてくれた希望は、一時的かもしれないけれど私の憂いを晴らしてくれた。

こんなことを思うのは心底嫌だけれど、なんだか私の人生には欠けているものが多いと思ってしまう。お金持ちじゃないし、特別な才能も見当たらない。心の底から尊敬する人もいないし、なんでもしてあげたくなる可愛い後輩もいない。いなくなった父親は私の憧れを消した。焦がれるような恋愛もなければ、全てを捧げたい人もいない。
けれどまあ、数えられるだけの特別大切な人たちと、涙を見せることのできる残された家族と、関ジャニ∞の歌声があればこの先の人生だってナントカナルサ、大切な思い出を少々心臓に刻んで燃やされれば私の人生はきっと充分だ。今さら満たされることには慣れていないのだからね。

と、コンサート参戦をあと数日に控えたところで少々重めの2015年の締めくくりを兼ねたアルバムの感想編。一言でまとめるならば、ツアーが最強に楽しみだ!

ポップでハッピーな人について

まず初めに断っておきたいのは、私は伊野尾慧くんならびにHey!Say!JUMPの超ド級新規であって、新規なりに伊野尾くんに惚れ込んだ経緯をとめどない自己満足で書き記している記事をこれから作成しようとしているということです。重ね重ねお伝えしますが非常に自己満足な記事なので、良く思われない方、不快感を覚えた方は瞬時にリンクを消してくださいね。笑


さて、そんなこんなで久しぶりにはてなブログなんぞにログインをして(奇跡的にユーザーID覚えてた)こんな記事をしたためようとしているということは、私は相当に伊野尾くんに心を引っ張られているということです。以前にもこんなような記事を書いた気がしますがそれはさておき。

さてさて、私が伊野尾くんのおもちもち肌とおねむねむ二重に魅力を感じたのは先日のFNS歌謡祭でのことです。2015年のFNS歌謡祭です。ほんっとうにドッ新規です。そこでピンクの衣装に身を包んで「ポップでハッピーな二人〜♡」と歌い上げる様は衝撃的でした。ほんと、可愛い。なんだこの可愛いヘイセイジャンプは。今まで全くのノーマークでしたので、これまでの伊野尾くんに関する記憶はほぼゼロ。まさに未知との遭遇だったわけですね。



まさしく伊野尾くんのカメラアピールに堕とされたただの茶の間でした。。

それからハードディスクに残っている限りのジャニーズ出演歌番組を見て、伊野尾くんを探す作業に入りました。…が、映らない映らない。こんな言い方本当に失礼だけど、みつからない。っていうか映ってないし。しかし午年のジャニーズカウントダウンにて、1990年生まれの伊野尾慧くんはウマウマシックスとして最後フロートに乗って周回をするわけですね、これが私のハードティスクに残りうる最古の伊野尾くんの姿だったのですが、まあ、その、やっぱり可愛いわけですよ。挨拶を終えて最後にグーにした手を頬に添えてきゅっと目を閉じる様なんてもう、(言葉にならない)

それからあっという間に私は伊野尾くんの虜になってしまったわけです、恐ろしい。私がジャニタレにハマるときはいつもこうだななんて思いながらFNS歌謡祭を見返す日々。伊野尾くん関連のツイッターを読み漁る日々。伊野尾くんのほっぺがおもちにしか見えなくなって、トマトで餌付けしたいなんて思い始めた頃、ようやく私は伊野尾くんの一万字インタビューを入手します。(身近なジャニオタにラインしまくった結果)

ここからが本題ということで。伊野尾くんの一万字インタビューを読んだ新規の感想をつらつらしていきたいと思います。自分の記録用みたいな感覚に近いので、ほんっとうに自己満です。

一番に思ったのは穏やかな人だな〜ってことでした。多分。読んでいてこちらの感情をいい意味で大きく揺さぶることがない。顔に出てると思うけど、人を安心させるような雰囲気がありますよね。文章からもそういうのがすごく伝わってきて、冷静に文字を追える。それもまた伊野尾くんの魅力だなあと思うわけですが。本人すらもマイペースだと自覚しているのだから本当に、喜怒哀楽の割合が偏っているのかな、ツイッターか何かで見たメンバーの発言で伊野尾くんは怒っていても分からないというものがあったと思うのですが、まさしくそれ。伊野尾くんには圧倒的に怒の感情が足りない。それはジャニーズ、っていうより芸能界っていう世界においてはとんでもない隙だし、そういう人は遅れを取ることが多いのだろうけど、誰だっていつもニコニコしている人には憧れるし、笑っている人を嫌う人は少ないと思う。だから伊野尾くんは多少言葉が悪くたって、後ろに立っていたって、私は好きで、私以外のたくさんのファンがいる。ただその反面すごく頑固な部分も持ち合わせていて、堀越にいかなかったり高校では友達をうまくつくれなかったり、年齢的なこともあったのかもしれないけど、自分の芯は強くって、正しい方向とは限らないけど、その意地が、伊野尾慧って人の軸をブラさずにいるのかなとは思った。ただ基本的には穏やかで、マイペースで、あとは所謂テキトーな人間だと思う。服に興味がなかったり、白米とかトマトとかを愛しすぎていることのように、伊野尾くんにとっての大切なものはもしかしたらとっても少なくて、だからそれ以外のものへの意識は薄いのかも。雑誌の発言は圧倒的に力を抜いていることが多いけど、歌番組ではカメラが向いたときしっかり笑顔を向けてくれる。その取捨選択、というか欲張らずに満たされすぎずに生きていく姿はなんだかとても羨ましいです。

もう一つ、一万字を読んで憧れたのは伊野尾くんの素直さ。悔しかったことを悔しかったと言える強さも、覚えていないことを覚えていないと言える素朴さも、なんだか芸能界にいるには脆すぎるのではないかと危ぶんでしまうくらいの素直さだなと思いました。飾らないから危うくて、だけどとっても面白い。伊野尾くんの魅力はここにもあるなーと感じました。なんだかちょっと、お姫様みたいで、きっと伊野尾くんがジャンプの伊野尾慧としてどこかのテレビに出るとき、私はきっとものすごく心配をしたがるだろうし、それは伊野尾くんに対する不安ではなくて、なんだかんだできっとすごくHey!Say!JUMPというグループに囲われて綺麗な顔で笑っていたお姫様みたいなひとが、グループの外に一人で出て行ってしまう、そんな状況があまりにメルヘンで心配することが楽しい感じ。だって舞踏会に行くシンデレラみたいだし、きっと舞踏会では誰もが伊野尾くんの魅力にあてられて、伊野尾くんは絶対にガラスの靴を置いて帰ってきてくれる。そしたらこの靴の持ち主は誰だって、必ずジャンプに還ってくる人がいる、ただお姫様を外界に送り出すときは誰だって漠然と不安じゃないですか、本当はすごく強い人だと思うけれど、儚くって太陽に照らされたら溶けていなくなっちゃいそうで、そんな掴めない魅力にこちとら庇護欲を掻き立てられて仕方がないですね。

あと大好きになったところは、伊野尾くんが苦労話を嫌がるところ!!!これはツイッターでも散々書いて多少欲求は満たされたのですがもう少し。そこまで読んできて私は伊野尾くんを心底ポジティブな人間だと思ったけれど、ここへきてあれ?って思った。人間は一面的ではないからポジとネガどちらの側面を持っていてもおかしくないから、そういうことなのかなと思うけど、あまりに共感できてこれは一筋縄ではいかないな?と思わされた。泣いて悔しかった話はできるけど、敢えてしない。しないこと、楽しかった話を前面に出すことが自分らしさであり、それが生きやすいと。

みんな大変な思いをしてるし、挫折とかも味わってると思う。俺がそういうことを話せば、もちろん知らなかったとこが知れてっていうのもあると思うけど。やっぱり俺は、楽しかった話とか、おもしろかったことの話とかだけしたい。(引用)

とってもいい発言だな〜と思いました。普通に。伊野尾くんはアイドルのなんたるかを理解している気がする。人を感動させることは重要で、それによってファンが増えるのも確か、それに比べてただ画面の中で笑っているだけで楽しい話ばかりする、そんな人は一見魅力のないように思われるかもしれないけれど、やっぱりアイドルに一番大切なのは、こちらのハッピーを引き出すことなんじゃないのかなあ。私の大好きな渋谷すばるくんはとっても難しい人間だけど、私がすばるくんを好きでいられるのはすばるくんの笑顔があまりに魅力的で、生きてること自体がファンサなんて言うけど本当にそう、すばるくんが笑っていたら、それだけで元気になれるからであって、すばるくんに求めていることも伊野尾くんに求めていることも本質的にはアイドルの仕事。伊野尾くんはそれに気付いて意識的にそうしている(もしくはそういる方が気楽だから?)のだから素敵で、なおかつこの仕事が好き、なんて特上の言葉を添えてくれるんだからもう花丸アイドルはなかなかいないでしょ。

いちおう、なんてつけなくていい。伊野尾くんはとびっきりのアイドルできっと間違いない。未来の展望なんかなくたっていい、ただアイドルの伊野尾慧をずっと好きでいてほしい。そうしていれば伊野尾くんはきっと私たちをずっと幸せにしてくれるだろうし、ずっと愛されていく。なんだかようやく、2015年にしてようやく、素敵なアイドルに辿り着いてまだまだジャニオタやめられません。

渋谷すばる LIVE TOUR 2015

行ってまいりました。来たる2月25日水曜日、天気晴れ、りんかい線に乗って東京テレポートまで。二階席だからと余裕をこいて小さなカバンを一つだけ抱えて、あとは寸前まで来てる吐き気と闘いながら降り立ったその地は意外にも現場感が薄く、私の緊張を一瞬だけ緩めてくれました。同行者の方と合流してTシャツを受け取って自分のカバンの小ささに気がつき、さてダイバーシティに着いて。なぜかキャパ2000人程度の箱に向かう強そうな人間がわんさかわんさか。Tシャツを握りしめた私たちはただ一言「これは勝てない…」肩と肩がぶつかったら私たちたぶん速攻で謝るよねって感じのつよそーなすばるくんを大好きな人たち。二階席で良かったよねって改めてチケットを確認して一息。あまりに落ち着かなくて折半して買ったたこ焼き美味しかったけど正直胃袋に入った感覚がない。そんなこんなで開場時間がやって来て、重い腰をよいこらせと持ち上げてまずはトイレに行きました。そこそこ列を成していたトイレすらもまだ行けないいまは違うって心を決められずにいる私の味方のように思われました。2人でTシャツに着替えて箱の中に閉じ込められたらもう大変でした。「えっゼップの二階席ってまじ貴族じゃない…?!」こんな環境ですばるくんを見られるということの喜びを改めて感じたものでした。

ライブ本番の幕開け以降はたしかな記憶がありません。すばるくんが舞台上にあがってきた姿を見て、まだそのときはどうしたらいいのかよくわからなかったけれど、すばるくんが一曲目と共にほんっとうにたのしそーに歌っている姿と声を聞いたら、嘘ではなくて安心してこちらもリラックスできました。どこかでずっと不安だったのが、私の知らないすばるくんだったら、関ジャニ∞を感じさせないすばるくんだったらどうしようという今思えば馬鹿げた妄想で、でもそれを取り払うようにあおっぱなを歌ってゼップを揺らしてくれたすばるくんは間違いなく今日も関ジャニ∞と共に関ジャニ∞として生きているという証拠を感じさせてくれました。「渋谷すばるです。関ジャニ∞ってアイドルグループやってます」幕引き間近になってなんの迷いもなく堂々とそう告げてくれたことが、私にとっては何よりのお土産となりました。本当にその言葉を聞いて感極まって泣きそうになったんだけど、元々感情が薄い方なので涙は流れませんでした。でも強くつよーく印象に残っています。

渋谷すばるくんは本当に歌が上手です。
歌に感情を載せることがあまりに上手すぎる。何通りもの技術を持って、たしかな練習量を感じさせてくれるのはもちろんのことですが、すばるくんの歌がなによりも響くのは聞かせるという思いが強いからだと思います。レイニーブルースのすばるくんとあおっぱなのすばるくんと、ライオンのすばるくんと、オモイダマのすばるくん。どれもすばるくんはすばるくんだけど、届けてくれたものは全部違う。たしかな成長と、関ジャニ∞として生きている楽しさと、音楽への愛情と、自分に関わる人間への思い。私の勝手な解釈をも許してくれる自由で幅の広い表現と多様性。まさしくDiversityって名の下にふさわしいけど、こういうことができる人は本当に少ないと思う。人間一人ひとりには個性があって、その人に対するイメージはだいたい一貫しているものだけど、すばるくんは表現が多様だから歌う時のすばるくんは1人じゃない。あっちもこっちも色んなところに違うすばるくんがいて、でもたしかにそれは一人のすばるくん。渋谷すばるって歌手の才能と努力を感じさせられたライブでした。

行くことができて本当に良かった。耳も腕も脳みそも破壊されて帰ってきたけど本当に本当に良かった。ずっと会いたかった聞きたかった。次いつ会えるのかわからないけど、今度はできれば7人の中でたのしそーにするすばるくんに会える機会を楽しみに、ただそれだけのためにもう少し生きていたいなと思います。おしまいにします。