ひたすら飽きるまですばるくんと関ジャニ∞とそれから

コンサートは死んでいる、らしい?

どうやら「コンサートは死んでいる」らしい。

1960年代ごろから音楽をこよなく愛する賢い人々がそう唱え始めていたのだと、今日の講義で耳にしたときは体裁で広げていたリングノートに目玉を落っことしそうな勢いで驚愕した。まあ実際に目玉が落ちるはずもなく、私はそれから落とす代わりに筆箱にしまったままだったシャーペンを握って真剣にその日の講義を受けることを心に決めた。目玉と一緒に単位まで落としてしまったらシャレにならないというのが本音だったのかもしれないが。

どうやら音楽を奏でる人間はすべてみな、程度に違いはあれどコンサートという場を好き好んでいるはずだという私の思い込みは間違っていたらしい。むしろ音楽を愛しているという自称を持つ音楽家たちは、壁と天井、床に囲われた空間の中でただ反響するだけの切り離された音に辟易としているようで、音楽に耳も傾けず黄色い声援を投げかけるばかりのファンを嘆いているらしい。そんなことが、あるのか。音楽に関わる人が、コンサートを、ライブを嫌って憎んでいるなんて信じたくなかった。だって私たちファンはコンサートを信じ切っているからだ。コンサートを真実として疑うことができないからだ。

だからこそ、昨今テレビ音楽番組などでの口パクなどの音を当てはめるだけの演出が嫌われる。誰だって信じていたい、今目の前で鳴り響く音が真実であると、でなければなんのためにこんなに必死になって応援しているのかわからない。たまには違う世界にいる彼らとの接点を感じたい。しかし、もし私たちがその場において本当に生演奏の曲を聴けたとして、それはリアルなのか、現実なのか、というところには少々疑問を抱く。
この話はとりあえず後に回すとして、音をあてる演出がここまで嫌われているにも関わらず根絶しないのはなぜなのか。もちろん一番大きな要因は私たち自身が偶像にリアルを求めていることだ。CDで聴いたあの歌を、あの声を聴きたい。しかし私たちはそれがベストテイクをつぎはぎしたかもしれない、音を写し取った加工品にすぎないことを無意識のうちに無視しているのかもしれない。CDやレコードの中に存在する大好きなあの人たち、をリアルで表現されることを願っている。その願いに沿うために、音をあてはめるという手段をとる。これこそが大きな理由であることにあまり疑問は抱かない。しかし私はこの理由以外に、アーティストという種の性分として、最善の音楽を届けたいという欲求があることも理由になっていると思う。そのために演奏家は楽器を練習し、表現力を身に着ける。CDだって何度だって取り直して納得いくまで歌い続ける。だからこそ、「コンサートは死んでしまう。」だって最善の音楽を届けるには音が切り離されるようなコンサート会場を用いることは最適な手段とは言えない。コンサート会場は乱れを生み出す場でしかない。予測不可能なことが起こるくせに、一度限りでしか許されない。そんな場で演奏するよりもつぎはぎのCDを届けてとびっきりのスピーカーで聴いてもらう方が当たり前に良い。

これらの言葉に真っ向から否定する自信も気力も私にはない。だけれど私はコンサートを死なせたくない。というか死んでいるなんて言わせない。コンサートは音を聞くだけの場所ではないからだ。理論破綻してしまったように思われるかもしれないし、実際そうなのかもしれない。しかしどうかできるだけ感情的な私に寄り添って思い出してほしい。コンサート会場で、私たちは音しか、音楽しか与えられていないのだろうか。いや違う、という回答が多いことを祈るばかりだが、ここからは私の話を根拠に進めていくしかないので、なんだそれ?と思った時点でどうかこの記事を閉じてほしい。

コンサートは偶像を演出し、再構築する場である、と私は思っている。CDやテレビで見ているだけの隔たりしかない大好きな彼らを再確認する場なのだ。そしてアーティストたちはコンサート会場で音や、光や、自分たちの姿を駆使して、会場に集まって人々の偶像を一挙に受け入れ、そして提供する、できるだけ統一する。音や音楽は、その演出のための強力な手段のひとつだ。コンサートという名目上、音楽をメインに興すイベントであることは確かなので、音楽ばかりに目を向けがちであるが、私たちはその音楽を一つの大きな手掛かりとして、決して関わることのない彼らを、リアルに寄せて再構築しているはずだ。想像していた通り、笑って歌っている、やっぱり音楽が好きな人なのだ、キーの高いフレーズは目を閉じて歌うタイプなのだな、云々。それがコンサートという場であり、コンサートの意義である、と私は思っている。

だってどこまで突き詰めたって、その人たちが本当の意味でリアルになることなんてない。ましてや本当の音ってなんだ。本当の音なんて彼ら自身の脳内でしか響かない。外付けのギターを手に取って、頭に流れている音楽を再現しているだけだ。本来の音を追及するなんて不可能に近い。外付けの機械でよりイメージに近づける技術を磨くために一生懸命に練習してから奏でられた音を軽視するつもりはない。そこに注目し、感動することはアーティストへ敬意を払う意味でも必要だ。だが、その音が壊されるからといってコンサートまで殺す必要はない、と私は信じたい。コンサートに必要不可欠な最重要項目こそ音であるが、それだけがコンサートの意義ではないはずだ。アーティストの呼吸を感じること、アーティストとともに空気の震えを感じること、アーティストの届けようとしている偶像を、シンボルを受け取ること、コンサートでは音を通じて、音に比べたら些細かもしれない小さな感動を私たちは幾つも得ているはずだ。

私はコンサートが好きだ。コンサートってなんだ、だけれどコンサートが好きだ。私の大好きな関ジャニ∞が愛しているコンサートが好きだ。アーティストなら、少しでも音楽が好きなのだったら、ファンの前で演奏することだけじゃなくて演出すること、演じることもどうか厭わないでほしい。そうして私たちに偶像を押し付けてほしい。解かれることのない呪縛のような夢の中に一生閉じ込めておけるような確固とした偶像がほしい。それが決して交わることのないファンが唯一主張できる望みだと、私は思っている。